生物多様性損失とその経済的・社会的影響:生態系サービス評価の学術的視点
ドキュメンタリー映画は、地球が直面する様々な環境問題を視覚的に捉え、その重要性を広く社会に問いかける強力な媒体です。近年、多くの作品で取り上げられている喫緊の課題の一つが、生物多様性の損失であります。種の絶滅速度の加速、生息地の破壊、そしてそれに伴う生態系の劣化は、単なる自然環境の問題に留まらず、人類社会の持続可能性そのものに深刻な影響を与えています。
本稿では、ドキュメンタリー映画が提起する生物多様性損失の問題意識を起点とし、その背景にある学術的な議論、特に「生態系サービス」の概念とその評価手法に焦点を当てて深掘りいたします。生物多様性の損失が経済的・社会的にどのような影響をもたらすのか、そしてそれがどのように定量化され、政策形成に活用されているのかを、学術的な視点から詳細に解説してまいります。
1. 生物多様性の学術的定義と損失の現状
生物多様性とは、特定の地域や地球全体における生命の多様性を指し、一般的に「種の多様性」「遺伝的多様性」「生態系の多様性」の三つのレベルで捉えられます。種の多様性は、地球上に存在する生物種の数とその均等性を意味し、遺伝的多様性は、個体群内や種内の遺伝子変異の豊かさを指します。生態系の多様性は、様々な生態系(森林、海洋、湿地、砂漠など)が存在することを示唆します。
国際連合が設立した生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)の2019年グローバル評価報告書によれば、地球上の生物種の約100万種が絶滅の危機に瀕しており、その多くは今後数十年のうちに絶滅する可能性があるとされています。この絶滅速度は、過去1,000万年間における平均の10倍から100倍と推定されており、人類活動がその主要因であることが指摘されています。
主な損失要因としては、以下の五つが挙げられます。 1. 土地利用・海洋利用の変化: 農業開発、都市化、インフラ整備、漁業などによる生息地の破壊と分断。 2. 資源の直接利用: 乱獲、過剰な伐採などによる種の減少。 3. 気候変動: 気温上昇、降水パターンの変化、海洋酸性化などによる生態系の攪乱。 4. 汚染: 産業排水、農薬、プラスチック汚染などによる生物への悪影響。 5. 外来種の侵入: 在来種の競争、捕食、病気の伝播による生態系バランスの破壊。
これらの要因は相互に作用し、生物多様性の損失を加速させています。
2. 生態系サービス概念の変遷と学術的枠組み
生物多様性の損失が人類にもたらす影響を理解するためには、「生態系サービス」の概念が不可欠です。生態系サービスとは、人間が生態系から享受する多種多様な恩恵の総称であり、その概念は1970年代に提唱され、2000年代に入ってMillennium Ecosystem Assessment (MEA) によって学術的・政策的な認知度が一気に高まりました。
MEAでは、生態系サービスを以下の四つのカテゴリーに分類しています。 * 供給サービス(Provisioning Services): 食料、水、木材、燃料、医薬品原料など、物質的な恵み。 * 調整サービス(Regulating Services): 気候調整、水質浄化、大気浄化、洪水調節、病害虫の制御、受粉など、生態系が環境を調整する機能。 * 文化サービス(Cultural Services): 精神的・身体的な健康、レクリエーション、美的な喜び、宗教的価値、教育・研究の機会など、非物質的な恵み。 * 支持サービス(Supporting Services): 栄養循環、土壌形成、一次生産など、他のサービスを可能にする基盤となる機能。これらは他の三つのサービスが機能するための前提となります。
このMEAの枠組みは、生態系が人類社会にいかに不可欠であるかを具体的に示し、その価値を可視化する上で重要な役割を果たしました。さらに、2008年には「生態系と生物多様性の経済学」(The Economics of Ecosystems and Biodiversity: TEEB)イニシアティブが発足し、生態系サービスの経済的価値評価に焦点を当て、その損失がもたらす経済的コストを定量化する試みが本格化しました。
生態系サービス評価の手法には、市場価格を直接用いる直接評価法(例:漁獲高の変動)、代替費用法(例:水質浄化にかかる費用)、支払い意思額(WTP)を推定するコンジョイント分析や表明選好法(Contingent Valuation Method)、旅行費用法(Travel Cost Method)などの非市場評価法があります。これらの手法は、生態系サービスの価値を貨幣単位で表現し、政策決定者や企業が生物多様性保全の便益を理解する上で重要な情報を提供します。
3. 生物多様性損失がもたらす経済的・社会的影響
生物多様性の損失は、広範な経済的・社会的影響を及ぼします。
- 食料安全保障の脅威: 農作物受粉の担い手である昆虫の減少は、農業生産性に直接影響を与えます。例えば、FAOの報告によれば、世界の食料生産の75%以上が受粉媒介動物に依存しており、その減少は数十億ドルの経済的損失に繋がる可能性があります。また、漁業資源の枯渇は、特に開発途上国の沿岸住民の生活と食料供給を脅かします。
- 水資源の劣化と災害リスクの増大: 森林による水源涵養機能の低下は、水質悪化や水不足を引き起こします。また、マングローブ林やサンゴ礁といった沿岸生態系の破壊は、高潮や津波に対する自然の防波堤機能を失わせ、沿岸地域の災害リスクを高めます。IPCCの報告書でも、生態系の健全性維持が気候変動への適応策として重要であることが強調されています。
- 医薬品資源の喪失: 多くの医薬品は天然物由来であり、生物多様性の宝庫である熱帯雨林などが破壊されることで、未来の医薬品開発の可能性が失われます。
- 文化・精神的価値の喪失: 特定の生態系や種は、地域社会の文化、伝統、精神的価値と深く結びついています。これらの消失は、人々のアイデンティティや幸福感に深刻な影響を与えます。
- 生態系レジリエンスの低下: 生物多様性の低下は、生態系が気候変動や外来種の侵入といった攪乱に対して回復する能力を弱めます。これにより、一度破壊された生態系が元の状態に戻ることが困難になり、持続的なサービスの提供が困難になります。
TEEBの報告書は、生物多様性の損失と生態系サービスの劣化が、世界のGDPの相当な割合に影響を及ぼす可能性があると指摘しており、その経済的コストは年間数兆ドルに上ると推計されています。
4. 生態系サービス評価と政策への応用
生態系サービス評価の進展は、生物多様性保全を「コスト」としてではなく、「投資」として捉える視点をもたらし、国内外の政策決定に大きな影響を与えています。
- 自然資本会計の導入: 生態系サービスを経済活動に組み込む試みとして、自然資本会計が注目されています。これは、森林や水資源などの自然資本を国の資産として評価し、GDPに代わる指標として考慮することで、政策決定に反映させようとするものです。国連環境計画(UNEP)などが推進する「自然資本パートナーシップ」を通じて、多くの国が導入を検討しています。
- 生物多様性オフセットとPES: 生物多様性オフセットは、開発行為によって生じる生態系の損失を、他の場所での保全活動によって相殺する仕組みです。また、生態系サービスへの支払い(Payments for Ecosystem Services: PES)は、森林保全による水源涵養や炭素吸収などのサービスを提供している土地所有者に対し、そのサービスの受益者が金銭を支払う制度であり、コスタリカなどで実践されています。
- 国際的・国内的政策動向: 生物多様性条約(CBD)の締約国会議では、生物多様性保全の目標設定が行われてきました。例えば、愛知目標(2010年採択)では、2020年までに生物多様性の損失を止めるための具体的な目標が設定され、現在はポスト2020生物多様性枠組(昆明・モントリオール生物多様性枠組)において、2030年までの新たな目標「30 by 30」が掲げられています。日本国内でも、環境省が「自然共生サイト」認定制度を導入するなど、生物多様性の保全と再生に向けた具体的な取り組みが進められています。
しかし、生態系サービス評価には課題も存在します。特に、文化サービスや支持サービスといった非市場価値を貨幣化することの困難さ、評価結果の不確実性、そして貨幣価値だけで生物多様性の本質的な価値を捉えきれるのかという倫理的な議論は、常に学術界で交わされています。これらの課題を克服し、より包括的かつ効果的な保全戦略を構築するためには、経済学のみならず、生態学、社会学、倫理学など多分野からの学際的なアプローチが不可欠であります。
結論
生物多様性の損失は、地球規模で進行しており、その影響は人類社会のあらゆる側面に及びます。ドキュメンタリー映画がこの問題に光を当てる一方で、学術的な視点、特に生態系サービス評価の枠組みは、その複雑な影響を定量的に把握し、政策形成に資する上で極めて重要なツールとなります。
生態系サービス評価を通じて、我々は自然の恵みがもたらす経済的・社会的価値を再認識し、生物多様性保全への投資の正当性をより説得力のある形で示すことができます。今後の研究は、非市場価値の評価手法の高度化、気候変動との相互作用の解明、そして評価結果を多様なステークホルダーと共有し、行動変容を促すための効果的なコミュニケーション戦略の開発に注力する必要があるでしょう。生物多様性保全は、現在の世代のみならず、将来の世代の幸福に直結する喫緊の課題であり、学術界、政策立案者、そして市民社会が一体となって取り組むべき領域であると認識されております。